妻がわたしの母から受け継いだものがある。
まあまあ大振りなダイヤモンドで、聞いたところでは0.95カラットあるという。
どんな大家(たいけ)の奥様だったのかと思われるかもしれないが、自腹を切って買ったものではない。
母がその叔母からもらったものだ。
女傑といっていいほどの人物だったそのひとのことを、親戚の年長者に「さま」をつけて呼ぶ郷里の習慣にのっとり、Mさまと呼ぶことにする。
明治生まれのMさまは、酒の卸問屋を営む家に嫁いだが、若い頃に夫を亡くし、思いがけず家業を継ぐことになった。
戦前の日本で女性が事業をすることは現在とくらべてはるかに大変だったと思うが、彼女は類まれな商才と統率力で店を育て、戦後は社員30人あまりを抱えるまでになった。
商売の実権を息子に譲り、悠々自適の身となったMさまは、昭和40年代の中頃、世界一周旅行に出かけた。
1ドル360円時代。単純計算すると、今なら100万円かかる旅に、当時は350万円かかったことになる。
大卒男子の初任給が3万円台だったころの話だ。
Mさまの世界一周に、街のひとびとが沸き立った。
当時の日本は敗戦から「わずか20年あまり」しかたっておらず、おとなたちの心のなかには、国際社会への気遅れのようなものが残っていたはず。
そんな空気を打ち破るようにして世界へ飛び出していったMさまの体験談を聞きたいという人が続出し、ついに彼女の講演会が行われることになった。
市内でいちばん大きな本堂のある寺が会場となり、Mさまはスライド写真を上映しながらみずからの見聞を披露していった。
世界一周といっても、アフリカや南米まできっちり巡るようなものではなく、おそらくヨーロッパやアメリカを軸としたものだったと思うが、今ほど情報のなかったあの時代、彼女の体験談は聴衆の好奇心を強く強く刺激したと思う。
ガキだったわたしに詳細な記憶はないが、食い入るようにして話を聞くひとたちの表情、会場の熱気が強く印象にのこっている。
事業と冒険の両面で人並み以上のことをやってのけた「女傑」Mさまは、わたしの母の叔母であると同時に、育ての親だった。
幼いころ孤児になった母は、親戚の家を転々とするうちずいぶん苦労もしたらしいが、最後にMさまのところへ来てからは、高等女学校へも出してもらい、ようやく人並みの暮らしに近づくことができた。
戦後まもなくMさまに嫁入り支度をしてもらい、社会人としてひとりだちした母は、どこかの時点でダイヤの指輪を叔母から受け取った。
昭和37年の母の日記に、ダイヤの指輪を直しに出したという記述があるから、それ以前にもらったものにちがいない。
どこへ出しても恥ずかしくない格好を姪っ子にさせたいというMさまの心遣いだったのだろうか。
母がきっちりとした礼装に身を包み、この指輪をして出かけていく姿を、わたしはよく覚えている。
使いこまれた台座はずいぶんくたびれているし、何よりデザインが昔ふうだから、これを受け継いだ妻はつくり直しをすることになるだろう。
世界を股にかけたMさまも、このダイヤモンドがアメリカ人の手に渡り、見も知らぬ国々を転々とすることになるとは思っていなかっただろう。
生々流転。途切れることのない流れがここにもある。
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