Pennyと地球あっちこっち

日米カップルの国際転勤生活 ~ ただいまラオス

書けずにいたこのこと

きょう6月6日をどんな気分で過ごしているかというと、あの日の経験について思い出し、ちょっとしゅんとしている。

5月2日、バイユーからクルマで30分ほどでオック岬に着いた。13万2000名の兵士が100kmにおよぶ海岸線に殺到し、前代未聞の規模で行われたノルマンディー上陸作戦の激戦地のひとつだ。

高さ30メートルの崖が連なる難所を攻めたアメリカ第2レンジャー大隊は、ドイツ軍守備隊の熾烈な機銃掃射により大きな犠牲を払いつつも、ついにこの崖を登りきり、岬を占領した。

だが、ここで命を落とした兵士は無駄死にだったかもしれない。第2レンジャー大隊が制圧を命じられたオック岬のドイツ軍砲台(下写真)はこのときまだ建設中で、配備されているとの情報があった大型の大砲も存在しなかった。

オック岬のドイツ軍砲台跡

だが連合軍司令部は、この大砲を潰さなければ他の海岸に上陸する部隊の頭上に砲弾が降り注ぎ、上陸作戦が失敗となる可能性が高いと考えていた。突っ込め―!第2レンジャー大隊225名の兵士は、嵐の海で上陸用舟艇が転覆したため溺死したもの、航法上のミスにより上陸が遅れ強まるドイツ軍の反撃に斃れたもの、届くはずだった戦車が沈没して盾を失い死傷するものが続出し、最後にオック岬を制圧したとき武器を持つことができたのは僅か90名だった。

誤算のない戦争などない。だからオック岬での戦死を無駄死にというのは間違っている。

だけど・・・

という気持ちひとつが残れば、オック岬へ来た意味があったような気がする。殺し合いのリアリティを胸に刻むのは悪いこっちゃない。

この日わたしたちをガイドしてくれたイギリス人のマットさんは、戦争のリアリティについて熱意あふれる解説をしてくれた。攻める側にも守る側にも必死の努力と山ほどの失敗があったことを具体的に語っていく。

お手製のフリップボードを駆使しつつ

ドイツ軍にもいろんな事情があった。ナチスドイツは銃弾・砲弾の製造工場を占領地につくり、主に女性たちを強制的に働かせていたが、女性たちはこれに密かに抵抗し、手抜き作業をしていたという。そのため戦争末期のドイツ軍は銃砲弾の不良品率40%前後という惨状に悩まされていたという。

占領地の男性も強制的にドイツ軍に組み入れられたが、兵士としての練度が低かったため東部戦線(ソ連との戦い)には投入されず、フランスの守備隊として送り込まれることが多かった。いうまでもなく戦意は低く、連合軍が攻め込むなり先をあらそって投降してくる兵が後を絶たなかったという。

そんなこんなでノルマンディー上陸作戦の戦いの行方が決まっていったわけだが、それは軍 vs 軍のたたかいの話であって、双方の兵士たちはたったひとつ命を背負って前線に突入した。

敵をやっつけろ!でも死ぬのはいやだ!

そんな兵士たちの叫びを代弁するマットさんの熱弁に、わたしたちはぐいぐい押され、79年前の6月6日に連れて行かれ、戦いを追体験した。オック岬の水が、なにかの冗談かのように澄んでいた。

オック岬からクルマで10分のオマハビーチに移動。ここは「血まみれオマハ」と呼ばれた激戦地で、2000名の米兵が戦死し、その多くは砂浜にたどりつくことなく水中で息絶えた。

オマハビーチ

この平和そのものの浜は、かれらが命を捧げて戦わなければ今でもナチスドイツの警備隊が闊歩する占領地(というか「旧フランス領」)であった可能性もある。

じっさい戦時中のオマハビーチでは、この地区にあったすべての別荘がドイツ軍に接収され、高級将校が使っていた。ノルマンディー上陸作戦により破壊された別荘は、戦後に再建されたが、戦前にあった棟数を超える建築物は今でも許されていない。地域一帯を戦跡として遺すための措置だとマットさんは言っていた。

オマハビーチには、上陸作戦の勇士をたたえる記念碑があり、3基それぞれに「希望の翼」「自由よ立ち上がれ!」「友愛の翼」との意味が込められている。オック岬にはじまりオマハビーチでもマットさんの熱弁を叩き込まれて気持ちがいっぱいいっぱいになっており、記念碑の前でチーズとかいう気分にはまったくなれず、むしろ混乱した気持ちを持て余すばかりだったところへ「一枚撮るからそこに立って!」とマットさんに言われ、ふらふらと記念碑に歩み寄ってしまった。

この直前に溢れ出した涙が乾いてもいなかったくせに、バカな観光客そのものの一枚。やめとけばよかったという後悔を忘れないため、ここに掲示しておく。

繰り返すが、ノルマンディ上陸作戦の地は連合軍の華々しい戦跡ではあるが、内実は銃砲弾を手抜き製造して処罰された女性たち、強制徴用されてきたにわかドイツ軍兵士、「無駄死に」となることも知らず崖をよじ登った連合軍兵士、直前の絨毯爆撃により命を落とした数千人のフランス市民、皆たったひとつの命を投げ出した現場であることに間違いはない。そういう物の見方をしてくれと必死になって訴えてくるガイドと出会えて、わたしたちはとても幸運だったと思う。

オマハビーチから宿へ戻った晩、とてもじゃないが旅行中はこのことについて書けないと思っていたのが、アメリカへ帰ってきても気持ちのまとまりがつかず、6月6日を迎えてようやく鉛の風呂敷を力ずくで広げ、鉄やら砂やらの遺物を取り出す気持ちで書いてみた。これで少しは気が楽になったが、PTSDみたいな辛さが消えるにはまだしばらくかかると思う。

皆さん、ノルマンディーの戦跡ガイドツアー、おすすめだよ。

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