Pennyと地球あっちこっち

日米カップルの国際転勤生活 ~ ただいまラオス

「名もなき兵」の死

前に少し書いたように、ノルマンディー地方の小都市バイユーは、ドイツ占領下のフランスで連合国軍により最初に開放された街だが、幸いにしてこの街が戦禍を被ることはなく、古くからの佇まいがよく残されている。

ぶらぶら歩きに適したサイズで、ゆっくり散策したくなる。

それと、ノルマンディー名物のガレットも是非賞味しておきたい。

ここのガレットは実に美味かった。何を食べてもおいしい東京でちょっと知られたガレットの店へ行ったことがあるが、そば粉の種類や水のせいだろうか、ここのやつのほうがはっきりと優っているように思われた。

バイユーに来た目的は戦争の足跡をたどること。バイユーの街はずれにあるノルマンディー上陸作戦記念館を訪ねたところ、事前に予想していたのとはまったく違うことを感じさせられた。

記念館は写真パネルのほか武器・軍用品が多く展示され、ずいぶんリアルな内容。

一般に「大成功」ととらえられている上陸作戦だが、無様な失敗も数多くあり、そのひとつが戦車だった。

太平洋戦争で日本軍が待ち受ける島々に上陸作戦をしかけた米軍がさんざんに苦労した経験をもとに、ノルマンディーでは「沈まない戦車」の使用が提言されたが、装備担当の将軍はそんなもの必要ねえと見向きもせず、上陸用舟艇に積んだ普通の戦車を浜辺に突っ込ませようとしたがどんどん沈んでしまい、何十両あった戦車のうち上陸できたのはほんの2両という悲惨な結果に終わった。

そのほかいろんな失敗や不運の積み重ねにより損耗も大きかった上陸作戦だが、大局から見れば成功して当然だったともいえよう。なによりたった一日(1944年6月6日)のうちに13万2000名の兵士を上陸させるという神業を作戦司令部は成し遂げた。計画が決してドイツ軍に漏れることのないよう極秘に準備を仕上げ、当日はリハーサルなしの一発本番で上陸させるなんて、運動会やイベントでまとまった人数を動かしたことのあるひとだったら目まいどころか余裕で気絶する難事業。しかもドイツ軍が大砲や機関銃弾を雨あられと降り注がせてくるなかで。

司令部の有能さは、戦闘指揮以外のところでも十二分に発揮された。ドイツ軍により破壊された港湾設備をわずか数日で再建し、ドイツ軍追走のための兵員32万名、車両5万台、400万トンの物資が運び込まれだ。

同時に最新の機材・技術を惜しみなく投入し、急ピッチで飛行場を建設。英米軍の戦闘機・爆撃機・輸送機がじゃんじゃん発着し、ドイツ軍に打撃を与えていった。軍隊の強さは工兵隊の優秀さに比例し、工兵の優秀さは補給の強さに直結する。いかに優れた戦術があっても、十分な補給なくして勝つことはできない(日本の敗戦の原因)。

上陸作戦は浜から兵士が押し寄せるだけでは成功しなかっただろう。作戦司令部は、ドイツ軍への内陸からの援軍・物資輸送を阻止するため、ドイツ軍の背後にある数多くの橋を爆撃して落としていた。

弱体化したドイツ軍が後退するやいなや連合軍は橋を架け直して進軍し、フランス各地を開放していった。この壮大にして用意周到な作戦のトップにあったのがアイゼンハワー将軍、後の第34大アメリカ大統領。戦勝の勢いだけで祭り上げられたわけではなく、「13万人が一日で上陸」を始めとする実務の指導者として大いに認められたからだろう。

そういった壮大なストーリーの一方で、わたしが最も心を揺さぶられたのは下の写真だった。

上陸戦による連合軍の死者・負傷者・行方不明者は1万1000人。その後3週間の死傷者は、連合軍・ドイツ軍合わせて42万5000人。こうしてまとめるたび、死者は単なる数字になってしまう。だが兵士のすべては誰かの息子であり、夫であり、恋人であり、父親だった。涙と抱擁によって送り出されたかれらは、戦争という巨大な暴力に踏みつぶされ、一枚の「名もなき兵」の写真になりはてる。

戦争を知らないわたしが想像できる範囲は限られているが、この翌日、写真が撮られた砂浜に立ったとき、名状しがたい激情が押し寄せてきて、我を失いかけた。それについてはあらためて。

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