Pennyと地球あっちこっち

日米カップルの国際転勤生活 ~ ただいまラオス

9月のドイツその9 観光名所ローテンブルクの薄暗い過去

気ままなドライブ旅行でやってきたのがロマンティック街道の宝石と呼ばれるローテンブルク。

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わたしはこの街を40年前に訪ねたことがあり、頭が悪いので詳しいことは覚えてはいないが、中世の面影が色濃く残るシブイ街、旧市街を取り巻く城壁が奇跡的にすべて残っており、街を見下ろしながら一周することができるというローテンブルクならでは観光はちゃんとやったと思う。

ちょっと記憶になかったのは、街のあちこちにある噴水のこと。

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これらはお飾りではなく市民の生活用水として機能していたインフラで、多くは中世につくられた。

下写真の「ゲオルク噴水」は、1446年に設置された当時の姿そのままに保存されてきたという。

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金箔の張り替えといったメンテナンスはあっただろうが、575年前の姿そのままにここにあるというのは、市民のいかなる執念によるものか、あるいはいかなる幸運によるものか。

ローテンブルクすげえ。あらためてそう思ったのである。

そして観光の目玉でもある城壁。

これは赤屋根の城壁を外側から見たところだが、その足元に穿(うが)たれた堀の深さはけっこうなもの。

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どんだけおっかない外敵から身を守っていたのか、「生きてるだけで命がけ」という中世の厳しさがよる伝わってくる。

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壁の内側に入り、民家の2~3階の高さにつけられた回廊を歩く。

幅1メートルもない通路が3.5kmに渡わたっている。

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家々の軒が目の前に迫ってきて、密集感がすごい。

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城壁ができたばかりのころはもっと少なかったのだろうが、安全を求めるひとびとが続々とやってきて過密化したのにちがいない。

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城壁のある街は、人間がずいぶん荒っぽかった中世において、いのちを守るゆりかごのような温かさがあったにちがいない。ローテンブルク住民のおだやかな笑顔を想像することができる。

回廊を歩きながら、40年前にここへ来たときにはなかったものに気づいた。

人名の書かれた石がところどころにはめ込まれている。

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どうやらこれは壁の修復費用を寄付した人の名前らしい。「1m」は、そのひとが担当した壁の幅を意味しているのだろう。

城壁は屋根付きだとはいえ、数百年の時の流れには逆らえず、あちこちにひび割れなどの劣化が見られる。なかにはぽっこりと石が外れてしまった箇所も。

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日本でローテンブルクの名が広く知られるようになったのは80年代のことで、ドイツ・ロマンティック街道の宝石として喧伝されるなかで城壁の保護運動も活発になり、日本からの寄付が相次いだらしい。

北九州市の小野田さんが、

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愛知県豊川市の西明寺さんが、

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京都哲学の道・四季の会さんが、

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企業名には旅行代理店があり、それはおまんまのタネだから当然としても、デパートあり、

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化粧品メーカーあり、

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ちょっと意地悪な言い方かもしれないが、バブルでお金の余った企業のかっこいい社会貢献としてドイツの文化財保護にまで手が伸びていたのかもしれない。

ともあれ日本の寄付者の名を記したプレートは数えきれないほどあり、海を越えた厚志が城壁を守ってきたことに心が温められた。

なにしろわたしがここへ来た81年の時点では、こうした保護運動は始まっていなかったもので。

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いのちを守るゆりかごのような街として栄えてきたローテンブルクは、窓を飾る花々がわたしたちを歓迎しくれる、ええところやなあと40年ぶりの再会に喜んでいたところ、とんでもないものを目にして浮かれた気分が吹き飛んだ。

ある城門のすぐ脇に、不自然な空き地があり、そこには墓標のようなものがぽつんと置かれている。40年前にあったかどうか不明だが、わたしは知らなかった。

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ユダヤのシンボルであるダビデの星の下には、こう書かれている。

「1933年から38年までのあいだにローテンブルクを追放された同志をここにしのぶ」

この時期、ナチスが全盛をふるったドイツではユダヤ人の迫害がエスカレートし、1938年11月にはナチス主導の大規模な迫害が発生。ユダヤ人への暴行、店舗の略奪と破壊、ユダヤ寺院シナゴーグの焼き討ちが行われ、多くのユダヤ人が居住地から追放され、「水晶の夜」と呼ばれるドイツ史上の巨大な汚点となった。

ところがここローテンブルクでは、水晶の夜を待たずして、その数週間前にユダヤ人への大規模迫害と追放が行われたというのだ。

ユダヤいじめの先進地だったローテンブルク、と言えるのではないか。

いのちを守るゆりかごは、すべてのひとのためではなかったんやね、やっぱり。

この土地のユダヤ人いじめの動機がどこにあったのか、ちゃんと勉強しなければわからないが、かつてシナゴーグがあった空き地で「ユダヤ住民の墓標」を見たわたしたちは、この街のとんでもない暗黒面を見せられ、げんなりするばかりだった。

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華やかな観光名所の薄暗い過去。

だがそのことにこだわっていては建設的になれないので、次回はローテンブルクで意外にも馬鹿うまかった食い物、日本人の奮闘、そしてドイツならではの買い物について旅のアドバイス的まとめてみようと思う。

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