2月末の東京は新しいものだらけ、あっちでキョロキョロこっちでキョロキョロのお上りさんだった。
わけても風景の変化が激しいのは渋谷駅周辺で、年に1回かせいぜい2回来るたび見たこともないビルが出現しており、もしも自分の足で立っているのでなければどこだかわからないに違いない。
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わけわからんのは渋谷駅の内部も同じで、駅舎をちょっとうまいこと通り抜けようと昔の土地勘で進入してみたところ、工事中の仮通路の迷路で方向感覚を失い、とんでもない遠回りをしてしまい、40年ちょっと前に東京さ出てきたころのことを思い出した。
あのころの渋谷駅には有名な黒板があった。
「東横ボード」と呼ばれ、東急東横線の改札口の脇に掲げられていた。
60×90センチほどの大きさに書き込まれる伝言は、「あっちゃん、先に行ってるよ」とか「青学〇〇、6時鳥正」とサークルのコンパ会場の通知などに使われることが多かった。
昭和も終盤とあって学生といえども部屋に電話のある子がほとんどだったが、ひとあし外出すれば糸切れ凧のように浮遊するしかなかった時代、あれは優秀なSNSだったなあ。
電話だってそんなに便利じゃなかったぞ。
ピッポッパになる以前、ダイヤル式の黒電話に留守録機能なんてものはついておらず、10回鳴らしたけど出ないからあきらめる、いやトイレ入ってるかもしれないからあと10回鳴らしてみよっかな・・・的な使い方しかできなかった。
そういう時代に、ある友人の電話の使い方がわたしを心底おどろかせた。
Kは岐阜県出身で、実家が繊維関係の工場を営んでおり、要するに社長の息子で金持ち、仲間うちでは唯一の鉄筋マンション(しかも恵比寿!)に住み、高価なメガネ、大きなバイク、お高いお召し物をそろえていた。
お坊ちゃんらしく気さくでおおらか、子供っぽいところもあるが、人に好かれるタイプではあった。
何かの用事でKの部屋に立ち寄ったとき、後輩を誘って飲みに行こうという話になり、ある下級生の下宿に電話をした。
あいにく留守らしく、10回鳴らしても20回鳴らしても出ない。
普通ならここであきらめるところ、Kは意外な行動に出た。
「出かけてるな・・・よし、このまま放っといたれ」
そういってKは受話器を机の上に転がした。
「いやいや鳴らしっぱなしはマズイだろ?」
後輩の安アパートの薄い壁ごしにベルが鳴り響く近所迷惑を思い、異を唱えるわたし。
だがKは「帰ってきたら出るよ」と涼しい顔。
相手が普段からさんざんおごってやっている気心知れた後輩であることはわかる。だがこれは・・・
とあきれ返りつつ、わたしにはKの奇行に魅了される部分があったような気がする。
電話かけっぱ攻撃はお世辞にも褒められたものではないが、このときのわたしは「既存の価値観にとらわれない自由な発想」のきらめきみたいなものを少し感じていたのかもしれない。
地方の古くさい家で「ひとさまの迷惑にだけはなっちゃいかん」的なことを耳のタコが死ぬほど聞かされて育った身として。
この晩のかけっぱ攻撃は、開始から数分したところでわたしが受話器を取り、まだ鳴ってるけど今夜は諦めようやといって終了させたように記憶している。
今でも黒電話の写真や実物を目にするたびあのことを思い出すのは、よほど強く印象に残ったからだろう。
Kは大学卒業後、父親のあとを継ぐべく家業に励んだが、繊維不況のために経営が傾き、会社は潰れた。
そうなる前、まだブイブイいわせていたころ、同級生の結婚式で東京に集まったとき、表参道のカフェにやってきたKが、当時肩掛け式から手持ちサイズになったばかりの携帯電話機をブランドもののポーチから取り出し、ぽんとテーブルに置いた姿をよく覚えている。
仕事でかかってきそうだから・・・と言い訳していたが、見せびらかしだったのに違いない。
けれど気の優しい仲間たちからの突っ込みはなかった。わたしは自分の正面にいた別の同級生に少し眉毛を上げてみせたような気がするが、Kをふくめた久しぶりの歓談は楽しかった。
東横ボード以外のSNSがない時代、仲間の近況を知る手段は限られていたから。
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