Pennyと地球あっちこっち

日米カップルの国際転勤生活 ~ ただいまラオス

年寄りは退場せよ

組織などが困難な再出発をめざすとき「解体的出直し」なんていうことがあるけれど、宮城県女川町の場合は街がリアルに解体されてしまってからの再出発だった。

2011年3月11日、女川町は高さ14.8メートルの津波に襲われ、被災地のなかでも最大級の被害を出した。人口1万のうち死者・行方不明者900名以上、町の住宅の約9割が損壊、カキやホタテ貝などの養殖が盛んだった漁業も壊滅的な打撃を受けた。このとき女川町は消滅したといっても過言ではない。

震災から8日後、水も電気も来ていないプレハブ小屋に町の有志が集まり、まちづくりの準備会を開催。1カ月後には商工会・水産業関係者らを中心に、女川町復興連絡協議会を立ち上げた。

協議会の会長は、商工会の会長をつとめていた高橋正典氏さんで、当時還暦を迎えていた。町の重鎮として復興を引っ張っていくことが期待されていた高橋さんは、皆の予想を裏切る方針を打ち出した。自分は復興には直接関与することなく、すべてを若いひとたちに任せると言ったのだ。

『復興に約10年、まちづくりの成果が分かるのに、さらに10年かかる。だから、20年後に責任がとれる30代、40代にまちづくりをまかせて、還暦以上は全員顧問になって、若い人たちをサポートしたい』

その後の女川町は大胆な発想によるまちづくりにで目覚ましい変化をとげ、産業は盛り上がり、震災復興のお手本と呼ばれるほどの存在になったわけだが、実になんとも示唆するところの多いエピソードだよね。

住宅地を高台に上げ、災害に強い町に変貌した女川町

タイトルに「年寄りは退場せよ」と乱暴な書き方をしたが、何もせずに死ねといっているわけではない。女川町においても、若い世代にはない知恵や人脈の広がりなど、シニア世代がその経験値を役立てた部分はたくさんあるだろう。だが、女川町に大きなチャンスを与えたのは、新しい設計図を引く仕事はいさぎよく次世代に任せるという発想だったのにちがいない。

実際にはたいへんだったようだ。協議会が大胆な復興策を提案しても、行政は「前例がない」のひとことで消極的になる局面が多かった。いやいや、前例のない未曾有の災害だったからこそ、復興には前例のない手法が必要なのだ。協議会の若いエネルギーあればこそ突破できた関門が数知れなかったのにちがいない。

わたしは常々、年金受給世代の選挙権は0.5票でいいと主張し世間から嗤われているが、これからの日本の繁栄はいかにして老害を抑え込めるのかにかかっているのだよ。女川町がなによりの証拠ではないか。

年寄りは退場せよ。

そして若者の邪魔にならないかたちで役に立て。

だっておまえら、20年後に責任とれないだろ?

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