高知市に取材で行った晩、スタッフとともにあるおでん屋台に入った。いかつい顔のおやじが出すおでんは旨かった。「東京からおいでになりましたか」みたいな感じで始まった四方山話を楽しんでいるところへ、突然に若い女性が現れ、おやじの横に立った。
すごい美人だった。
一気に背筋を伸ばしたわたしたちの顔には「だ、誰それ?!」と書いてあったのに違いない。それを察してか察せずしてか、おやじはこう言った。
「これ娘なんです。ときどき手伝いに来てくれるんです。あ、でも・・」
と続けたおやじの言葉にわたしたちは衝撃を受けた。
「あ、でもあさって嫁に行くんです」
なぜ「あ、でも」だったのかはわからない(いやわかっている)が、めでたいニュースを聞いた瞬間わたしたちは不自然なまでに盛り上がり、口々にお祝いの言葉を述べただけでなく、一杯機嫌だったせいか、わたしは余計なことを言ってしまった。
「いやあ残念なことをしました。もっと早く高知へ来ておけばよかった」
だらしない酔っぱらいそのまんまのセリフだが、父娘は案外なことにけっこう喜んでくれて、座が盛り上がった。
しばらくしてわたしは娘さんにひとつお願いをした。
私:土佐弁をひとつ覚えて帰りたいんですが、『菜の花がきれいに咲いたね』ってのはどう言いますか?
娘:それはね、菜の花がきれいに咲いちゅうきと言うんですよ。
私:菜の花がきれいに咲いちゅうき。
娘:そう、菜の花がきれいに咲いちゅうき。
後輩1:菜の花がきれいに咲いちゅうき。お前もやれ。
後輩2:菜の花がきれいに咲いちゅうき。
こんな感じで楽しく過ごさせてもらったのだが、わたしはなぜ土佐弁に興味を持ったのか。もちろん坂本龍馬の影響だ。
現代のわたしたちにとって坂本龍馬は、幕末の風雲を語るうえで欠かせないヒーローだが、その名が広く知られるようになったのは現代のこと。江戸末期、龍馬の存在は「倒幕関係者」のあいだでは広く知られていた。しかし大政奉還なった直後に暗殺され、その後の新国家建設に参加することがなかったこともあり、彼の名は新しい地層の下に埋もれてしまった。
没後96年を経た昭和38年、司馬遼太郎の「龍馬がゆく」が彼を幕末日本を颯爽と駆け抜けたヒーローとして描いたことにより、龍馬は一気にスターダムに駆けのぼった。同時に、四国の片田舎でしかなかった土佐の言葉が広く知られるようになった。
「日本の夜明けぜよ!」
龍馬の台詞にシビレながらあの本を読んだわたしは、いつか高知へ行って本物の土佐弁に触れてみたいと思っていた。おそらく土佐弁は、坂本龍馬も司馬遼太郎もいない日本では全国区の方言にはならなかっただろう。歴史がどう転ぶかなんて、だれにも予測がつかない。だからあのおでん屋台でのひとときは楽しかった。すでに20年以上も前の話。みんな元気でやってるかなあ。懐かしいぜよぅ!
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