ヤクザの家で冷や酒をごちそうになった話に登場するシンジ君は、どぎまぎし通しのわたしと違って如才ない応答のできる大人びたやつだった。
高校の同級生だったシンジが入学したのは明治大学の農学部で、キャンパスは川崎市生田にあり、隣駅の読売ランド前に彼は住んでいた。その住みかについて前回「アパート」と書いたが、実際には学生寮だった。
寮の部屋は3畳ほど。作りつけのベッド以外には小さな机がようやくひとつ置けるだけのカプセルホテルのような部屋だったが、当時のわたしはそこに寝泊まりすることが多かった。上京したばかりでまだ友達が少なく、同郷のシンジとだったら田舎訛りを気にすることなく付き合えて気楽だったからだ。
シンジの部屋に泊まるときは、シングルベッドにふたりしてぎゅう詰めになって寝た。アホ話をしながらクスクス笑ったりして、小学生みたいだった。
シンジの大人びたキャラクターは、例えば長身で渋い顔立ち(和製クリント・イーストウッド風)、ぼそぼそとした話し方、音楽の趣味などに表れており、ジャズの名曲を楽器ソロの代わりに高いヴォーカル技術で聴かせるマンハッタン・トランスファーを教えてくれたのも彼だった。
そんなシンジ君がわたしの人生を一変させる出来事があった。
泊まりこんで3日目の朝、目覚めたら腹が減って死にそうだった。ところがふたり揃って数十円しかなく、外食はおろかスーパーでの買い物もほとんど無理。幸いにしてコメだけがあったのは、シンジの実家が農家でどっさり送ってきてくれているからだった。
メシはある。なにか一品でいいからおかずを・・・
という状況下、シンジがポンと膝を叩いて立ち上がり、「ちょっと行ってくるわ」と言って出かけていった。わたしが廊下の突き当りの洗面所でコメを洗い、湯沸かし器で炊飯を始めたころ、笑顔のシンジが帰ってきた。
その手に握られていたのは納豆パックだった。
うわ・・・
ひそかにのけぞったのは、納豆がわたしの天敵だったから。家族で納豆を食べるのは父親だけという環境で育ち、おやじが納豆を取り出すたびその臭気のせいでリアルに吐き気をもよおし、納豆にだけは死ぬまで近づきたくないと思っていた。
オレは醤油メシでいいや・・・
読売ランド前の学生寮でそう観念したわたしが見守るなか、シンジが納豆パックを御開帳。久しぶりの吐き気に備えて身を固くした瞬間、わたしの鼻孔をくすぐったのは得も言われぬ芳香だった。悪臭だったはずの納豆が、たまらなくうまそうに思えたのだ。シンジが取り分けてくれた納豆をメシに乗せ、半信半疑で口に放り込んだときの驚きといったら。
う、うんめぇえ!
そう感じたのは、極限状態に近い空腹のせいだったか、わたしの味覚が気づかぬうちにおとなになっていたせいか。
いずれにせよこの日を境にわたしは大の納豆ファンになり、それから半世紀近くたった今、世界を転々としながら納豆の自家製造にはげんでいる。人生を一変させたシンジくんの買い物。マンハッタン・トランスファーは今でも好きでよく聴くが、納豆のインパクトを凌駕するものではないと思う。やっぱり人間、食ってなんぼですから。
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