スリがうようよしてそうな蚤の市に好きこのんで出かけた。
うちから徒歩数分のジュドバル広場で開かれている年中無休のマーケットがどんなものか興味があった。
あくまでも不用品市場であるからして、掘り出しものの古伊万里やら清朝青磁やらに出会う確率はゼロに等しく、代わりに生活感まるだしの品々が所せましと並んでいる。
意外だったのは、そこそこよろしいお召し物のマダムたちが大変意欲的に古着をゲットしておられる風景。
ヨーロッパのひとってこんな感じでプラクティカルなことが多いのかね。日本人はものを大切にするというけど、〇〇さんの奥さん蚤の市でお洋服あさってらっしゃったわよなんて噂立てられちゃかなわんからこういうのには手を出さない?人目を気にして生きる社会はやっぱりたいへんなのか。
洋服のみならず、ちゃんと生活に使える道具も多い。
うちの食器は白+青が多く、それにマッチしたのはどれか考えながらウロウロするのも悪くない。
あ、その緑色のグラス、あなたが指さしてるそれですよマダム!妻はそういうのが好きなんですが、いったいおいくらするんでしょうかね。
そしてなんといっても蚤の市ぽいのが、道具とガラクタの中間をいく品々。
お土産ものぽいものが多く、あなたが誰かにプレゼントしたものも案外フリマに出ているのかもしれないね。
逆にいえば、こうした品を選ぶことで世界をめぐることもできるわけで、くすんだ色のメダルが半世紀前のイスタンブールの土産物屋からベルギーへ移動してきた経緯を想像してみるのも楽しい。
自分自身の来た道を振り返らせるブツもある。
ノキアのケータイは、妻が十数年前カイロにアラビア語を学びに行ったとき使っていたのと同じモデルなのだそう。
下の木目ノキアは、わたしが初めて買った90年代の機種(色は普通のグレー)とほぼ同じ。
これを見た瞬間、当時の通話音質や料金の高さ、リダイヤルするのにキーを3回押さなくちゃならない使いにくさが一度によみがえってきて、軽いめまいを覚えるほど。
今回歩いてみてインパクトMAXだったのがこちら。
1940年代ころの写真。結婚式あり、子供ありの家族の記録だが、写っているひとたちはすべてこの世から去ったのだろうか。
わたしたち一般人の写真なんて、本人や直近の者にとってこそ意味ある存在だが、関係者がいなくなれば単なる「絵」でしかない。
捨てられて灰になるよりは、誰か知らないひとの部屋を飾るインテリアとして生きながらえるほうがいいと思うんだが皆さんどうでしょ。
こういう写真やら道具やらガラクタやらを見て歩くうち、不思議な気分がぐわあっと押し寄せてきた。
フリマの品物は、 はるか遠くの空間や時間と自分を結びつけてくれる。
1930年代のアルゼンチン。50年代のソ連。そこを皮の旅行鞄さげて歩き回ったひとたち。帰国を待つ家族との暮らし・・・
そんな風景と2021年の自分が直結する感じ、もっといえば異世界とつながるような感じにたいそうわくわくしてしまったのだ。
蚤の市ファンにとっては常識にすぎないことだろうけど、あたしゃちょっと盛り上がってみた。なんの因果かブリュッセルに流れてきて暮らす日本人だからかもしれないが。
ともかくこのように「異世界チャンネル」ともいえる蚤の市に、もしもわたしが大金持ちだったら無限にお金を注ぎ込むだろうと思ったのである。
お金持ちの世界ってスゴイぞ。何の気なしに買ったランプが実は19世紀のティファニーランプで、オークションにかけたら3億円超の値がついた(クリスティーズでそうした実例あり)なんてことがあり、お金がお金を生むサイクルは各地で実働している。わたしたちの目に触れないだけのことで。
そういうわけでフリマのあやしい魅力に目覚めたわたしは、遠からぬうちにまた広場をうろつくことになるだろう。
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